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【訃報】桂小金治さん死亡! [ニュース]
落語家の】桂小金治さん死亡のニュースについてお知らせします。
ワイドショーの司会、ドラマや映画などで親しまれた
落語家でタレントの桂小金治(かつら・こきんじ、本名田辺幹男=たなべ・みきお)さんが
3日午後4時45分、肺炎のため川崎市麻生区の病院で死去した。
88歳だった。
通夜は10日午後6時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。
葬儀・告別式は11日午前9時半から同所で。喪主は妻良子(りょうこ)さん。
1966年(昭和22年)に二代目桂小文枝に入門、
2年後に二つ目に昇進し、桂小金治を襲名、
昭和27年に映画「こんな私じゃなかったに」で映画初出演し以後、
数多くの映画に出演した。
その後、テレビ隆盛の時代になるとテレビ、ラジオにも登場し、
ワイドショー(テレビ朝日系)の司会では社会問題を積極的に取り上げ、
一般聴衆の立場から怒りを表現する異色の司会が人気を博し、
「怒りの小金治」の異名を取った。
1950年~62年には「それは秘密です!」(日本てれび系)でも
司会を務め、長く合うことのできなかった、
ゆかりの人同士を再会させるコーナーでは涙を流すなど人情的なところを見せ、
今度は「泣きの小金治」ともいわれて、名司会者の評判を得た。
親交があった落語家「三遊亭金馬」さんの話
「センスの良い落語家で、頭の回転の速さにはかなわなかった。
大喜利でも、さらさらとすぐに受け答えができ、機転が利いていました。
頑固なところがあり、それが個性にもなっていた。
俳優に転身するときには落語家を辞めないように、
と引き留めたのですが、自分が決めた道は貫くだろうとも思っていました。
僕とは名前が似ていたので、少し世の中に出てきた頃は、
よく間違えられました。近年、落語会で会えたときは、うれしかったです。
年を重ねて落語をやりたくなったのかもしれません。
会うたびに『一杯飲もう』と言っていたのに、
互いに忙しくて約束を果たせなかったのが心残りです」
懐かしい、古き良き時代の顔がまた一人、いなくなりましたね。
さびしい思いがいたします。
ご冥福を祈ります。
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ワイドショーの司会、ドラマや映画などで親しまれた
落語家でタレントの桂小金治(かつら・こきんじ、本名田辺幹男=たなべ・みきお)さんが
3日午後4時45分、肺炎のため川崎市麻生区の病院で死去した。
88歳だった。
通夜は10日午後6時から東京都品川区西五反田5の32の20の桐ケ谷斎場で。
葬儀・告別式は11日午前9時半から同所で。喪主は妻良子(りょうこ)さん。
1966年(昭和22年)に二代目桂小文枝に入門、
2年後に二つ目に昇進し、桂小金治を襲名、
昭和27年に映画「こんな私じゃなかったに」で映画初出演し以後、
数多くの映画に出演した。
その後、テレビ隆盛の時代になるとテレビ、ラジオにも登場し、
ワイドショー(テレビ朝日系)の司会では社会問題を積極的に取り上げ、
一般聴衆の立場から怒りを表現する異色の司会が人気を博し、
「怒りの小金治」の異名を取った。
1950年~62年には「それは秘密です!」(日本てれび系)でも
司会を務め、長く合うことのできなかった、
ゆかりの人同士を再会させるコーナーでは涙を流すなど人情的なところを見せ、
今度は「泣きの小金治」ともいわれて、名司会者の評判を得た。
親交があった落語家「三遊亭金馬」さんの話
「センスの良い落語家で、頭の回転の速さにはかなわなかった。
大喜利でも、さらさらとすぐに受け答えができ、機転が利いていました。
頑固なところがあり、それが個性にもなっていた。
俳優に転身するときには落語家を辞めないように、
と引き留めたのですが、自分が決めた道は貫くだろうとも思っていました。
僕とは名前が似ていたので、少し世の中に出てきた頃は、
よく間違えられました。近年、落語会で会えたときは、うれしかったです。
年を重ねて落語をやりたくなったのかもしれません。
会うたびに『一杯飲もう』と言っていたのに、
互いに忙しくて約束を果たせなかったのが心残りです」
懐かしい、古き良き時代の顔がまた一人、いなくなりましたね。
さびしい思いがいたします。
ご冥福を祈ります。
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タグ:桂小金治さん死亡
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